FC2ブログ

後光明天皇ブログ

第110代後光明天皇の生涯を綴るブログです。 近世初期の朝廷・公家・後宮・幕府などの資料、オリジナル小説を随時掲載する予定です。

Entries

東福門院の女房について

東福門院に仕えた女房たちについて、私が把握している人々は以下のとおりです。
女房たちの生年月日が不明なので、参考に、それぞれの父親の生年月日・後光明天皇即位時(1643年)の年齢を記しておきます。
序列がわからないので、順不同です。



滋野井 某子 上臈 信濃小路局(滋野井教広女)
父親の生没年:元和6(1620)年8月27日~元禄2(1689)年6月21日
父親の1643年時点の年齢:23歳


西洞院 行子 上臈(西洞院時慶女)
没年:延宝6(1678)年歿
父親の生没年:天文21(1552)年11月5日~寛永16(1639)年11月20日
父親の1643年時点の年齢:すでに死去しているが、生存していた場合は91歳 
*後光明天皇掌侍弁内侍の叔母
*『時庸卿記』作者の平松時庸の妹
*一条昭良側室(西洞院時直女)の叔母


西洞院 某子 綾小路局(西洞院時直女)
没年:貞享2(1685)年8月15日歿
父親の生没年:天正12(1584)年~寛永13(1636)年11月6日
父親の1643年時点の年齢:59歳
*一条昭良側室の姉
*『時庸卿記』作者の平松時庸の姪
*後光明天皇掌侍弁内侍のいとこ


久我 俊子 新大典侍局(久我通堅女)
父親の没年:天文10(1541)年~天正3(1575)年
父親の1643年時点の年齢:すでに死去しているが、生存していた場合は102歳
*六条有広室となるも、のちに離別。のちに名を改め岡と称する。
*久我家は、岩倉家と千種家の本家


鷲尾 某子 中臈 高倉局(鷲尾隆量女)
父親の没年:慶長11(1606)年~寛文2(1662)年8月23日
父親の1643年時点の年齢:37歳
*鷲尾隆量は実は広橋兼勝の次男


万里小路 某子 積房小路局(万里小路雅房女)
父親の没年:寛永11(1634)年3月29日~延宝7(1679)年6月23日
父親の1643年時点の年齢:9歳


橋本 某子 権大納言局(橋本季宗女)
父親の没年:不詳
父親の1643年時点の年齢:不詳


下冷泉 貞子 典侍 中納言局(下冷泉為将女)
没年:延宝8(1680)年10月11日卒
父親の没年:元亀3(1572)年
父親の1643年時点の年齢:71歳
*藤原惺窩の姪
*冷泉為景の妹(実は為景は藤原惺窩の男なので、実は為景の姪に当たる)


大河内 梅子 従三位 肥後局(大河内具泰女)
没年:慶長7(1602)年~寛永7(1630)年5月5日
肥後局の1643年時点の年齢:41歳
*大河内家は武家


堀河 某子 春日局(堀河康胤女)
父親の生没年:文禄元(1592)年9月9日 ~ 寛文13(1673)年正月27日


鴨 某子 小弁(鴨永祐女)
父親の生年月日:慶長15(1610)年11月2日~元禄6(1693)年9月19日
父親の1643年時点の年齢:33歳

但馬局 詳細不明

宰相局 詳細不明

多奈井小路局 詳細不明 
霊元天皇に仕えた多奈井小路局と同じか?




上記出典は、『公卿類別譜』を参照。
平成24年4月30日、一部修正
煌子さんのご教示により、緑色の部分を一部修正しました。ありがとうございます。

平成25年1月24日、一部修正(紫字の部分)
『隔蓂記』より

平成25年1月27日、一部修正(桃字)
『皇女品宮の日常生活』瀬川淑子著より


スポンサーサイト



Comment

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2012.04/08 22:01分 
  • [Edit]
  • [Res]

コメントありがとうございます!! 

煌子 様

この度は、貴重なコメントを寄せていただきまして、本当にありがとうございます。
当ブログはコメントをくださる方がまだまだ少ないので、とっても感激しております。

さて、当ブログを楽しんで見てくださっていると伺い、非常に嬉しいです!!
きっと、私も楽しんでブログを運営しているので、それが伝わっているのだと思うと、さらに感激です。

煌子さんも、こういう世界がお好きなんですね。
面白いですよね。
私も大好きなんですよ。
特に、後宮の様子を当ブログの本編小説でうまく描ければいいなと思うのですが、私は本当に文才がないので、なかなか表現するのは難しいですね。

当小説の方についてコメントをくださる方がとても少ないので、これが一番私は嬉しかったです。
ありがとうございます!!
煌子さんのおかげで、温かいパワーをいただいて、さらにマニアックに邁進したいと思いました(笑)。
当小説の方は、最近ようやく帝と秀子の接点ができました。
これから、二人がどうなってゆくのか、一緒に見届けて応援してくださると嬉しいです。

ところで、「東福門院の女房について」の件で、貴重なコメントをありがとうございます。
とても助かります。
また近いうちに記事修正をさせていただきますね。
後宮関係にお詳しい方よりご教示いただけて、嬉しかったです。
教えていただいた参考文献も調べてみたいと思いました。
本当にありがとうございます。

また、何かございましたら、どんどんアドバイスをいただけると助かります。
私も、私のブログを見てくださっている方とこうして意見交換ができることに喜びを感じていますので、またぜひよろしくお願いします。

『後光明天皇ブログ』管理人ひなたむらより




  • posted by ひなたむら 
  • URL 
  • 2012.04/09 22:44分 
  • [Edit]
  • [Res]

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2012.05/05 19:51分 
  • [Edit]
  • [Res]

こちらこそ、はじめまして 

紀伊 様

わざわざコメントありがとうございます。
了解いたしました。
どうぞどうぞ、何だかとても嬉しいお知らせでしたよ。

私も早速、貴ブログを拝見しました。
茶々を一途に追いかけるブログとは素晴らしいですね!!
何だか、私のブログと似たところがありますね~。
茶々を追いかけていると、きっとその周辺の人々や同時代にも関心が広がり、芋づる式に知りたいことが増えますよね。
ゆかりの地を歩くのもマニアックで楽しいですよね。
私と同じで、飽きないライフワークになると思います。
楽しい趣味ですよね。

私のブログも、紀伊様にとって何か参考になりましたらとても嬉しいです。
これからも、何か参考になることを載せられたらいいなと思いました。
またどうぞ当ブログの方に遊びにいらしてください。

それでは、このたびは貴重なコメントをありがとうございました。

『後光明天皇ブログ』管理人 ひなたむらより
  • posted by ひなたむら 
  • URL 
  • 2012.05/06 15:12分 
  • [Edit]
  • [Res]

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2012.05/08 15:17分 
  • [Edit]
  • [Res]

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2012.05/19 02:04分 
  • [Edit]
  • [Res]

貴重なご指摘感謝します 

煌子 様

お忙しいところご連絡ありがとうございます。
私が知らない貴重な情報と、誤りをご指摘いただいて、どうもありがとうございます。

今式部の件は知りませんでした。調べてみます。
ありがとうございます。
女房の情報は面白いですね。

藤谷為景の女の件ですが、藤谷為景とは、ご存じかと思いますが別名冷泉(細野)為景といい、後光明天皇の侍講であり、後光明天皇が敬愛した藤原惺窩の息子です。
時代的にも合っていると思いますので、礼成門院孝子内親王の女房だったのだと思います。
貴重なご指摘ありがとうございます。
全然知りませんでした。
とても素晴らしい情報で興奮しました。

『近世朝廷人名要覧』の件ですが、確かに私の誤りです!!
何で間違えて入力していたんだか!!
ビックリしましたよ。
新広義門院所生の品宮常子内親王が300石なんです。
すみませんでした。
ちなみに、東福門院所生の女五宮は3000石でした。桁が違いますね。

のちほど、誤りと教えていただいた貴重な情報をブログに載せたいと思います。
どうもありがとうございました。
煌子さんは、本当に色々と素晴らしい資料をお持ちですね!!

ぜひまたいい情報がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

『後光明天皇ブログ』管理人ひなたむら













  • posted by ひなたむら 
  • URL 
  • 2012.05/19 23:02分 
  • [Edit]
  • [Res]

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2012.05/22 16:33分 
  • [Edit]
  • [Res]

ああッ!!? 間違えました!! 

煌子 様

またまたご指摘ありがとうございます。
藤谷為景じゃなくて為賢でしたか!!
おっちょこちょいなので、間違えて喜んでいましたよ。
すみませんでした。
教えていただいて、ありがとうございます。
恥ずかしいやつでした。

埋木の件もありがとうございます。
東福門院に仕えていた人々は、武家出身者も公家出身者もいたでしょうから、とても興味深いです。
ありがとうございます。
その資料を私も見てみたいですが、古い本ですね。
図書館に行きたいですね。

また何かありましたら、教えてください。
私は毎日仕事が忙しくて、なかなかブログを更新できないのと、資料を読む暇が作れず、申し訳ないです。
余裕ができましたら、また手持ちの資料を公開したいと思います。

では、ありがとうございました。
またよろしくお願いします。

『後光明天皇ブログ』管理人 ひなたむら

  • posted by ひなたむら 
  • URL 
  • 2012.05/22 22:36分 
  • [Edit]
  • [Res]

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2012.09/15 19:27分 
  • [Edit]
  • [Res]

 

多分ご存じかと思いますが、後水尾院周辺を語るうえでかかせない史料として鳳林承章(おうりん じょうしょう)の日記『隔蓂記』があります。その記載は、寛永12年(1635年)から寛文8年(1668年)までの死の2ヶ月前までの33年間の長きに及び、当時の宮廷社会、文化を知るうえで欠かせない一級の史料かと思います。いつも流し読みですませていますが、精読すればきっとご専門の後光明院に関する新たな事実がみつかるかもしれませんね。

文禄2年(1593年)~寛文8年(1668年)76歳。勧修寺晴豊の六男。母は土御門有脩女。

父晴豊の妹晴子は新上東門院、後陽成院母。兄に勧修寺光豊、甘露寺経遠、坊城俊昌、安部致康などがいる。

慶長5年(1600年)8歳の時に南禅寺の西笑承兌について参禅得度。慶長13年(1608年)16歳で鹿苑寺金閣の住持。さらに寛永2年(1625年)に相国寺第95世住持。

後水尾上皇の側近として和漢の文学や絵画、芸能に通じ、当時を代表する教養人の一人である。元和4年(1618年)から寛文5年(1665年)までの約五十年間上皇のそば近くにいた。禅学を進講するとともに、宮廷の和漢の歌会、能、舞、茶、花見、酒宴などの席に連なるなど交流範囲も広く、勧修寺家の出身者として禁裏を中心とした宮廷社会各層との交際、また、五山の禅僧として相国寺をはじめとする寺社関係ばかりでなく、その付き合いは京都所司代、京都代官などの武家方や金森宗和、千宗旦、狩野探幽などの趣味人、文化人から唐物屋の商人にまで及ぶ。

  • posted by 長谷 
  • URL 
  • 2012.09/15 19:42分 
  • [Edit]
  • [Res]

追伸『隔冥記』について 

長谷 様

追伸です。
『隔冥記』(冥の字は草冠がついています)については、ツイッターでもお返事いたしましたとおり、15年前にはすでに知って、すぐに後光明天皇に関する文章を丹念に調べ、コピーを取りまくっています。
特に、後光明天皇と鳳林承章については素鵞宮時代から長く交流があるので、コピーする場所がたくさんありました。当ブログでも、過去の記事に載せてあります(カテゴリ参考文献:書籍)のでご覧ください。
同書での収穫は、後光明天皇が素鵞宮時代に方々を遊興していたことと、その遊興先の中に承章の寺があったので、承章とのやりとりがあること、紹仁親王御所が存在したこと、在位中に淋病歴があることです。
私も、長谷さんがおっしゃるとおり同書は第一級史料だと思います!!
本当に、当時の様子が分かる貴重な内容です。

私が持っているかも知れない史料だとしても、念のため確認していただけると新たな発見になることもありますので、このたびはご教示ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。


『後光明天皇ブログ』管理人 ひなたむら
  • posted by ひなたむら 
  • URL 
  • 2012.09/16 22:57分 
  • [Edit]
  • [Res]

 

『隔冥記』は書棚の隅にいつも埋もれたままでしたが、最近思文閣から新たに刊行されたついでに、総索引の巻だけ購入したおかげで使い勝手がよくなりました。
  • posted by 松籟 
  • URL 
  • 2012.09/17 02:41分 
  • [Edit]
  • [Res]

華族建屋坪数控 

京都府総合資料館に残されている明治初年当時の公家屋敷の詳細に関する史料があります。「華族建屋坪数控」(明治4年11月)がそれです。関心のある堂上家について調べたことがありますが、あまりの詳細さに驚いた記憶があります。

庭田家は、当時、新在家御門内下ルに所在し敷地633坪。本家159坪、離れの茶室5坪、土蔵13坪、納屋13坪、厩8坪、長屋14坪、湯殿・雪隠3坪となっています。
  • posted by 松籟 
  • URL 
  • 2012.10/12 17:15分 
  • [Edit]
  • [Res]

『華族建屋坪数控』について 

松籟 様

いつも当ブログをご覧いただき、そしていつも素敵な史料を教えていただき、ありがとうございます。
このたびも、京都府総合資料館に残されている「華族建屋坪数控」(明治4年11月)について、ご教示ありがとうございました。大変素晴らしい史料のようですね。テンションが上がりました。ぜひ見てみたいです。

> 庭田家は、当時、新在家御門内下ルに所在し敷地633坪。本家159坪、離れの茶室5坪、土蔵13坪、納屋13坪、厩8坪、長屋14坪、湯殿・雪隠3坪となっています。

とのこと。庭田家は、私の予想以上に大きな屋敷でした。石高350石なので小さな家で貧乏だったのかと思っていましたが、お公家さんは「清貧」なので屋敷だけはそのくらいの規模なのかしらと参考になりました。

屋敷の図面を見るのが好きなので、大変興味深い史料です。
庭田家は蛤御門前にあったと言われていますが、「新在家」ということは火災で移転したのでしょうか?
明治の頃にはこちらにあったのですね。
京都は火災が多かったので、庭田家も移転を免れなかったのかなと想像しました。

大変面白そうな史料を教えていただいてありがとうございました。
またいい史料がありましたら、よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。


『後光明天皇ブログ』管理人 ひなたむら

  • posted by ひなたむら 
  • URL 
  • 2012.10/13 22:49分 
  • [Edit]
  • [Res]

新在家御門 

蛤御門とは愛称みたいなもので、正式名称は新在家御門ですから移動はないかと思います。
  • posted by 松籟 
  • URL 
  • 2012.10/14 02:05分 
  • [Edit]
  • [Res]

管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • posted by  
  •  
  • 2013.02/15 18:25分 
  • [Edit]
  • [Res]

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

ご案内

『後光明天皇ブログ』公式Twitter

gokoumyoutennou < > Reload

プロフィール

ひなたむら

Author:ひなたむら
後光明天皇とは、近世初期に22歳の若さで崩御した天皇です。

時代としては、江戸時代の寛永年間~承応年間に当たります。

このブログは、後光明天皇の恋と生涯を描くブログです。

内容としては、近世歴史学、近世国文学が好きな方、特に近世の朝廷、公家、後宮、朝幕関係が好きな方向きになっています。

私がこの天皇を知ったきっかけは、中学生の頃、身分違いの恋がテーマの小説が書きたくて、歴代天皇の中から一夫一妻だった天皇を選んだことにあります。

たまたま、偶然知ったのが後光明天皇でした。

しかし、後光明天皇が当時あまり知られていない天皇だったこともあり、それ以降、たくさんの文献を調べてゆくうちに、調べる過程がとても楽しくて、面白くて、結果として大学で卒論『後光明天皇の生涯』としてまとめました。

このブログでは、私が卒論で使用した膨大な資料と、それ以降、細々と独自に調べている資料をもとにしています。

江戸時代の京都と言うマイナーな分野ではありますが、今もなお私を楽しませてくれるこの時代を、マニアックな私の視点からではありますが、皆さんにも少しずつお伝えしたいと思います。

FC2カウンター

最新記事

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
小説・文学
1388位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
オリジナル小説
249位
アクセスランキングを見る>>

FC2ブログランキング

FC2カウンター2

現在の閲覧者数:

ブロとも一覧

ブロとも申請フォーム

右サイドメニュー

検索フォーム

QRコード

QR